【シャープ横断♪バトンリレー】第35走者◆『何糞』で走り続けた1万4965日。私と一緒にシャープ9両編成の旅へ。


みなさん、こんにちは。

小野さんからバトンを引き継ぎ、第35走者を走ります法務部 コーポレート法務グループの玉木敬子と申します。
私の人生の大半を占めるシャープの旅に、最後までどうぞお付き合いください。

私のシャープの旅は1984年に始まり、音響(通信)システムのデザインセンターからスタートしました。

当時は、電機メーカーは花形の職業で、特にデザイン本部長だった坂下さんは経営職かつ業界では有名な方でした。デザインの経営職の方は、まだどの企業にもおられない時代で、デザイナーの意見が通りやすい会社だと思い、その電車に乗りました

あと、青い制服を着てみたかったから。

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入社当時、青い制服を着てドラフターと格闘し業務に励む
左から、夏の制服・MTGの様子・会社運動会のジュース早飲み競争の一幕

   

当時はまだ男女雇用機会均等法が制定されておらず、大半の女性はクリスマス(25歳)までに電車を降りてしまいました。私の旅は未だ終わっていないので、何かお仕事や悩んだ時の参考になればと思いバトンを受けました。どうぞ私の旅に最後までお付き合いください。

本社(西田辺)で開催された入社式の後、デザイン部門に配属された新入社員は天理の研修所で1か月間、デザイン研修をみっちり受け、最終日に配属先の発表がありました。

『広島にある音響デザインセンター』と言われたときは、行ったこともなく、知人もいない広島への配属に愕然とした覚えがあります。

今はもうありませんが当時の女子寮は会社から坂を下り、徒歩約15分、3人の畳部屋で門限9時でした。当初はホント逃げ出したかったですが、幸い周りの方が親切に教えてくださり、仕事も楽しくなり、結局、長い間お世話になりました。

●第1両目 八本松駅の旅へ
 1984年~1991年 音響(通信)デザインセンターに配属

ラジカセ、ヘッドフォンが人気の時代です。主にグラフィックデザインを担当しました。当時はドラフターで設計し、デザインモックを自分で作り、写真も自分で撮影しました。 デザインを採用してもらうための企画会議や、技術の方への説得に苦労しました。

■一番のお気に入りは、全面真っ黒に、筆を使い自分で文字を描いたラジカセのパッケージです。群展示すると「滅茶苦茶カッコいい」と自画自賛し、次々とシリーズ化しました。

■ラジカセが売れ、歌手の永井真理子さんを起用しプロモーション展開をしました。
ロゴデザイン、パッケージデザイン、ポスター、展示台と手掛けました。

■まだまだラジカセが売れ、次は超人気バンド漫画「TO-Y」を起用し、パッケージも漫画っぽくするために、茶段ボールとオレンジカラーをわざと使用しました。漫画家さんが忙しく、描いてくれていいよ、とのことで、実はTO-Yを真似てイラスト、ロゴも作成しました。

■海外向けのラジカセも人気でした。当時流行の切り絵タッチのイラストを表現するため、パントーンを切り貼りしながら作りました。家電製品にはない洋服のタグのようなPOPの採用を説得できた時は嬉しかったです。






←洋服のタグのようなPOPを作成。実物が未だに手元にありました

■ラジカセの次はヘッドフォン人気で、当時としては珍しく、表にピアノブラック・シルバー、裏にブルーを印刷しました。ネーミングは浮き出し文字でお洒落なパッケージに仕上げました。開ける口もラウンドにする等、凝りました。このパッケージも初の試みで、説得するため、企画、技術部門を駆け回りました。

■外箱(カバー)と内箱の2重使いです。外箱には黒の片段ボール、内箱は商品カラーにあわせました。

■海外向けのヘッドフォンです。4色展開だったので、パッケージに丸い穴をあけてそこから色がチラ見できるという斬新なデザインです。

■1991年4月に音響デザインセンターから通信デザインセンターに部門名が変わり、通信関連のデザインも手掛けることになりました。コードレス電話も売れました。いろんなデザインのパッケージを作りました。その都度、企画、技術部門を駆け回りましたが、仕上がった時は嬉しかったです。

■ブラジルのデザインセンターから通信デザインセンターに研修に来られたTanniaさんと仲良くなりました。自宅に招いたり、ブラジルサンパウロにあるTanniaさんのお家や、SDBデザインセンターにも遊びに行きました。

 

まだまだ紹介したいデザインが沢山ありますが、そろそろ次の車両に移ります。

●第2両目 西田辺駅①の旅へ
 1991年10月~1996年 総合デザイン本部へ異動

1991年10月、グラフィックデザインメンバー集結PJ発足のため総合デザイン本部のある田辺ビルに異動しました。

目玉が飛び出る衝撃を受けた出来事がありました。ユーザインタフェースに優れたパソコンMac(Macintosh)が登場し、難しい言語を入力しなくても感覚的に使えるパソコンが登場しました。

いよいよドラフターの時代からパソコンの時代に突入

パソコンは苦手なアナログ人間でしたが、当時の上司から「Illustrator、Photoshopをグラフィックデザイナーが使いこなせるように指導してくれ」と、言われ「何故、私が」と思いながらも使いこなせるように勉強しました。CAD試験制度をつくり、デザイナーのCAD知識アップのため奮闘しました。

そうこうしていると、海外ではホームページなるものが流行りだしたと知人から聞き、最初に見たホームページが『NASAのホームページ』でした。海外の情報を日本から見られることに物凄く感動しました。(今では当たり前ですが、まだ会社にeメールもなかった時代です)

ホームページがどんなものか、役に立つかわからないので、とりあえず情報システム部門と全社ホームページ分科会を発足し、兼任で出席していました。

ドラフターからCAD時代へ
シャープのショッピングバッグのデザインもPhotoshopで
総合デザイン本部のレクレーション、写真手前中央の赤いセータの方が、坂下常務(当時)

●第3両目 西田辺駅②の旅へ 
 1996年2月~2008年 広報室 ホームページ企画室へ異動

そうこうしていると日本ではSONYが一早くホームページを立ち上げました。シャープも専門部門を発足しホームページを至急立ち上げようと会社方針が決まりました。

ホームページ企画室が発足し、デザインからも来てほしいとのことで、またまた上司から「おお、いい機会や、行ってこい。立ち上げたら戻ってこい」と、言われました。

1996年2月、総合デザイン本部のある田辺ビルから、道を挟んだ向かいの西田辺ビルに新設されたホームページ企画室に異動しました。

蓋を開けたら部長を含め3名のみの体制で、しかもシャープホームぺージを立ち上げる期限が2か月後、更に前例がないので手探り状態でした。かなり苦しくしんどかった時期です。

なんとか2か月後の1996年4月1日にシャープホームページ(日・英)を公開しました。
ホームぺージは上書きされてしまうので当時のデータがあまり残っていないのが残念です。

唯一プリントが1枚、残っていました。 アクセスのしやすさと、惹きつけるキャッチコピーで勝負していました。
強豪サッカーチーム・マンUのスポンサーで、グローバル版のホームページに載せていました。

■苦労が実ったのか、外部評価は有難いことに良かったのが救いです。
 1997年ASCIIの第一回国内メーカーホームページ評価ランキングで第3位

1997年10月 ASCIIの第一回国内メーカーホームページ評価ランキングで第3位

■1999年、インターネットからレシピを電子レンジにダウンロードし自動調理ができる、世界初のインターネットクッキングを実現した「献立アドバイス液晶レンジ」を発売。それに伴い、季節のメニュー、離乳食、お弁当、健康食といった食生活の変化に合わせたレシピをシャープホームページからダウンロードできるように対応しました。ヘルシオの先駆けでしたね。

シャープホームページからレシピをダウンロード可能に
1997年6月1日 シャープホームページの立ち上げで功績賞を頂く
1997年6月1日 定期表彰式の模様

■2000年12月31日~2001年12月31日 経済企画庁長官(企画当時)堺屋太一の発案の元、日本国政府のミレニアム記念事業の一環、また経済振興策としてインターネット博覧会(通称インパク)が開催されました。博覧会を模したインターネット上の行事で、当初は出展しない方針でしたが各社参加することを踏まえ締め切り間際に、当社も1年間参加する方針に変更となりました。

「ようこそ液晶世紀へ!未来くんの20××年」をテーマに、インターネットにパビリオンを開設しました。未来の家電コーナーでは「液晶ミラー」でその日の服装選びができる等、夢の商品提案をしました。

またユーザー参加型の架空都市「あけぼのCity」では市長を務めました。今では当たり前のリモート会議や在宅勤務も取り入れました。「P社に負けるな!」の上からの声がありましたが、外注する予算もありませんでした。

とにかく知恵を絞り出しました。シャープのインパクサイトがアイディア賞1位を受賞した時にはプレッシャーから解放され、ホッとした記憶があります。

当時のサイトが残ってないのは本当に残念です。

インターネット博覧会 2000年~2001年開催 最終画面が唯一残っていました

未来散歩 ようこそ液晶世紀へ!
未来くんの20xx年、未来の商品提案や架空都市のあけぼのCityを運営
2007年7月1日 定期表彰式の模様 ビジネス革新最優秀賞

第4両目 西田辺駅③の旅へ 
 2008年4月~2010年
 ブランド戦略推進本部 Web企画室へ異動

メディアミックスという言葉が流行した時代です。
宣伝、販促、ホームページ部門がバラバラの部門に所属していたので、同じ本部に集めようという会社方針により、ブランド戦略推進本部が発足され異動しました。

ブランド戦略推進本部のレクレーション

2006年、亀山工場サイトの立ち上げのために何度も撮影、取材に行き苦労しましたが、当時の亀山工場サイトも残っておらず残念です。
2010年にはグリーンフロント堺サイトを立ち上げましたが、同じく残っていなくて残念です。

●第5両目 西田辺駅④の旅へ
 2010年6月~2014年 広報室 企画グループへ異動

マスコミ発表会、リリースなどコーポレート関連のホームページ業務は広報室へ異動しました。

■紙の社内報の廃止とともに、イントラネットにPress Roomを立ち上げました。

当時のイントラネットPress Roomの画面。名前は当時のマスコミ向けサービス Press Netサービスから思いつきました

■2012年9月15日、創業100周年を迎えるにあたり、シャープの歴史を網羅する
 シャープ100周年記念サイトを立ち上げました。

シャープ100周年記念サイト

■2014年、チャレンジし続ける人、商品、企画にスポットを当てたチャレンジサイトを立ち上げました。日本アドバタイザーズ協会主催の「2014年 第 2 回 Web グランプリ 企業グランプリ部門 浅川賞(アクセシビリティ賞)優秀サイト」を受賞しました。

チャレンジサイト、第1回目はお茶プレッソ

第6両目 西田辺駅⑤の旅へ
 2014年12月~2016年 
 経営企画本部 情報管理推進Gへ異動

経営状況の悪化とともに憶測報道が飛び交い経営部門直轄で情報管理を行うため、経営企画本部の傘下に情報管理推進グループを新設する方針が決まりました。突然、IT、法務部門との連携強化のために異動することになりました。

当時シャープはPマーク(個人情報保護)認証を取得していましたが、Pマーク認証からISMS認証(情報管理全般の保護)に切り替える経営方針に変更されました。

ISMS認証取得事務局担当をすることになりました。シャープ(株)では初のISMS認証(ISO27001)の取得のため、周りにも経験者がいなく、さすがにデザインとはかけ離れた業務だったため苦労しました。

当時は200人近くいた認証対象者に研修を実施し、その意図を理解してもらうために奔走しました。部門ごとに説明に出向き、納得してもらうまで話し合いの繰り返しで、反発されることもしばしば。北は北海道、南は九州まで実地監査にも伺っていました。そんな状況からか事務局メンバーはどんどん去っていき・・・。忍耐の毎日でした。なんとか2015年6月30日初回ISMS認証登録ができ、それ以降認証の継続更新となりました。

初回ISMS認証責任者の方と事務局メンバー、本社第一集会室で説明会を実施

●第7両目 堺駅の旅へ
 2016年12月~2024年 社長室 構造改革担当
 ⇒管理統轄本部 構造改革担当

本社の堺移転に伴い、堺に異動、部門名も構造改革に変わりました。

■世界的に標的型攻撃が増え、社員の情報セキュリティマインド向上のため、イントラに
ISMInformation Security Management) NAVIサイトを立ち上げました。
ISM NAVIのネーミング、ロゴデザインも作りました。
当時はTeleOfficeを活用し情報漏洩防止かつ業務効率化する方法や、各部門での情報漏洩対策の取り組み等を掲載しました。

当時のISM NAVIサイト、現在はSPortalに変わりましたがイントラ左下にバナーがあります

2024年1月 構造改革担当の皆さんに見送られる

●第8両目 天理駅の旅へ 
 2024年2月~現在 法務部(天理)へ異動

現在は、法務部(天理)に所属しています。

最近の業務では全社AIガイドライン委員会の事務局をしております。イントラに「AIに関する社内外の動向を迅速にお知らせし、全社員一人ひとりのAIリテラシー向上を目指す」AI Navigatorサイトを2024年12月に立ち上げました。デザイン、広報、IT部門等の皆さんにご協力いただいたおかげです。ありがとうございました。

AIリスク勉強会の動画も公開(~2025年3月31日)しましたので是非ご覧ください。

※社内ネットワークからのみ閲覧可能なページ

AI NavigatorサイトのTOP画面

●第9両目 趣味の車両

趣味はスポーツ全般、絵を描いたりすることです。小学校ではソフトボール、中高とバレーボールで鬼コーチにしごかれ『何糞』精神が備わりました。会社に入りスキー、スノボー、ダイビング(ライセンス取得)、テニス等を経験しました。現在はマラソンにはまっています。

■社内報 mado 2010年2月号「スポーツで人生2倍充実させよう!!」の特集記事で、当時の人事本部長との座談会に出席させていただきました。

社内報 mado 2010年2月号 特集記事

■シャープ実業団テニス部メンバーとの思い出
私の所属していましたシャープ女子実業団「関西チーム」は、チームメンバーのおかげで全国実業団の大会で2008年、2009年、2011年全国優勝を果たしました。私の中では夏の帯広の全国大会で、滅茶滅茶長いラリーを繰り返し、なんとか粘り勝ちした試合が一番思い出深いです。多分、応援していたメンバーは「暑いし早く決めろ!」と思っていたはずです。

■人生最大の大怪我をしてしまいました。

2020年4月早朝、 山道を走っていましたら転倒してしまいました。右肘と足を強くぶつけましたが、打ち身程度に思っていました。痛さより恥ずかしさで急いでその場を立ち去ったため、今でも何故転倒したのかわかりません。

とりあえず近所の整形外科に駆け込むと「うちの病院では対応ができない程の骨折をしているので大きな病院への紹介状を書くから、そちらへ行ってくれ」と言われました。大病院へ行くと「すぐ手術が必要!酷い粉砕骨折をしている。もう右腕は使えなくなるかもしれない」とまで言われました。見事に右肘の骨がバラバラに散らばって、肘から上下の骨が大きく離れていました。神経まで切断されてしまい、手術を3回、リハビリに3年かかりました。今でも右腕は痺れていますが、リハビリのお陰で右肘も動くようになりました。

リハビリでお世話になった装具に感謝

     

■そんな経験もあり、もうスポーツから縁を切り、静的な趣味に切り替えようと思いましたが、やはりランニングに戻ってしまいました。スポーツにはなにかしら怪我がつきもので、昨年は脚を痛めて1年間走れませんでした。さすがにもうやめようかと思いましたが、ぼちぼち再スタートし走り始めました。ランナーあるあるですが、机上で考えているより、ランニング中になぜか頭が整理され、よいアイディアがどんどん浮かんできます。自然の中を走っていると嫌なことも忘れてしまいます見知らぬ人が「頑張れ!」と、応援してくれます。それがランニングをやめられない理由の一つかもしれません。

夢は大きく、フルマラソン(42.195キロ)の年代別で日本一、世界一になることです。また2025年の年明けにNHKでブータンにて開催されたスノーマンレースの特集番組がありました。世界中のすべての人々に気候変動への緊急対策を呼びかける王室のメッセージがありました。地球温暖化の影響でブータンの山々の氷は解け、洪水となりブータンの村が次々と破壊されています。ランナーの体感を通して、この危機について世界に発信してもらいたい想いがありました。

この番組を通じ、私も何かの一助になれる人間になりたいと切に思いました。

  

私の長いシャープの旅にお付き合いいただきありがとうございました。

実は2024年の今頃は私の人生で一番悲しい辛い出来事があった年でした。そんな中での異動でしたが、法務部長の山崎さんを初め、素晴らしい方ばかりに囲まれ、また天理の研究開発本部の皆さんにも大変良くしていただき頑張ることがきました。感謝で一杯です。

2025年は、蛇のように上昇する気運を引き寄せ、何事もポジティブに笑顔で実行出来る年にしたいです。『何糞』と走り続けた1万4965日のシャープの旅で、様々な部門、業務、スポーツを経験させていただき、沢山の方々と巡り合い助けていただいたおかげで今日の自分があります。

その感謝と、創業者の日々努力『何糞』、チャレンジ精神を忘れずに、これからも様々な方とコミュニケーションを図り、助け合いながら、私の旅は更に日数を増やし続けたいです。

最後まで私の旅にお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。また、次の旅でお会いしましょう。

次のバトンは、丁寧にテニスを教えてくださった、いつも笑顔の

TVシステム事業本部 海外事業部 副事業部長
小祝岳夫さん

にお渡します。いろんな楽しいお話が聞けると思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

(玉木敬子/法務部 コーポレート法務グループ)

≪シャープ横断♪バトンリレー≫とは…?
みなさんの人脈を駆使しバトンのようにコラムを繋いでいくという、太古の昔からある数珠つなぎ企画!第35走者は 法務部の玉木さんでした。第36走者は、玉木さんからバトンを託された小祝さんです。お楽しみに♪

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